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「あっ、危ない!」
ガタッと崩れたその一角。
とっさに差し出された私の手。
キャッチされたのは、梅しそのドレッシング。
「ふぅーっ、間一髪やな。」
Yさん宅の冷蔵庫。
その混沌の世界に仕掛けられていたのです。
インディー・ジョーンズも真っ青の巧妙なトラップ(罠)が。
ひと言でいうとね、入りきらないんです。
そう、ドレッシングのビンが。
何せ10本近くありますからね。
で、入りきらない一本が梅しそです。
だから、寝かして置かれていたんです。
分かります?
普通、ドアの内側のポケットにドレッシングが縦に入ってますよね。
そのドレッシングの上に横たえられているわけです。
正しくは、「横」というより「斜め」ですね。
あと5度でも傾斜がきつければ、バランスを保つことはできないでしょう。
「実に危うい状態だ。」
ドアの開け方ひとつで、いつ土砂崩れが発生してもおかしくありません。
まるで内閣から派遣された防災対策官のように、厳しい視線で現場を再点検します。
すると、まだありました、危険個所が。
梅しそのとなり。
同じくドレッシングのビンの上。
「なんだ、これは?」
白い発泡スチロールの平らなパックが伏せられています。
意を決して、裏返してみます。
「魚の切り身じゃないか・・・なぜ、こんなところに。」
これをそのまま放置すると、断層が横滑りする危険性があります。
危うく二次災害に遭うところでした。
しかし、冷蔵庫の中には、避難させるスペースがもうありません。
仕方なくテーブルの上に、梅しそと魚の切り身を退避させます。
「ここにいたのか。」
危険な捜索の末、ついにごまだれとの邂逅(かいこう)を果たします。
「はい、先生。こっち、こっち。」
速やかに、Yさんへ身柄をを引き渡します。
「ごまだれ、ごまだれ~。♪フン、フフン、フン。」
ハミングしながら、ご機嫌に、かつ豪快に、ごまだれを豚しゃぶに降りかけられます。
私には、そのハミングが、黒魔術の呪文のように、耳に残ります。
「・・・もうそれぐらいで、いいんじゃないですか。」
「あら、そう?」
ごまだれが床上浸水したかのような豚しゃぶ。
食べるの、ほとんど私なんですけど・・・。
Yさんから、ごまだれを受け取り、元の位置におさめます。
しかし、ここで、再び問題が浮上します。
そう、梅しそです。
一時避難している梅しそをわが家に帰してやらなくてはなりません。
危険予知の観点からも、ここは、具申しなければならないでしょう。
「あのー、Yさん。梅しそは、ここでいいんですか?」
お分かりですね。
これは、「質問」という形式をとりながら、「提案」しているわけです。
ちょっとモノをどかせて、ちゃんと収納しませんかと。
しかし、Yさんは、そんな小さな世界観で推し量れる存在ではないのです。
「はい、そこでいいですよ。ドレッシングはドレッシングでかためておかないとね。」
う~ん、そう来たかあ。
ここで、くじけそうな私の心。
しかし、昔、ギリシアのイカロスは、ロウで固めた鳥の羽根で大空へ飛び立ったのです。
勇気ひとつを友にして、言葉を継ぎます。
「このビンの上に、『斜めに寝かしておいて』いいんですね?」
あえて、不安定な状況を強調させてもらいました。
しかし、赤く燃え立つYさんの前には、ロウの翼ではあまりにも無力でした。
「そうそう、崩れないように、ちゃんと寝かしておいてくださいね。」
この場合、「寝かしておく」のが、「ちゃんと」なのか?
そんな疑問を打ち消しながら、細心の注意を払って、梅しそを横たえます。
やはりいくら挑戦しても、斜めにしかなりません。
さらに、魚の切り身も横たえて、不安定な現場を復元させます。
こ、こうするしかないのか・・・。
Yさん宅の冷蔵庫。
危機管理の観点から、あらためて、中身を見渡してみます。
確かに、これ以上、モノを収納するスペースは見当たりません。
店のクーラーケースにまで、領土を広げているくらいですから。
しかし、よく見ると、長期保存の漬物や未開封のジャムのビンなどが散見されます。
「これって、別に冷やしておかなくてもいいんじゃないのか。」
しかも、見事に詰め込まれています。
奥へ奥へと何層にもかけて。
たかが50cmほどの冷蔵庫の奥行き。
しかし、実寸法より、はるかに深遠で混沌とした世界が、そこには存在しているのです。
まるで、Yさんの潜在意識をそのまま投影したかのような。
きっとこのジャングルの奥には、眠っていることでしょう。
保存したことさえ忘れ去られた「超熟成」の一品が・・・。
「あっ、先生。冷蔵庫のドアは、そぉーと閉めてくださいね。」
はい、承知しております、十分に。
「さあさあ、召し上がってくださいよ。」
「ありがとうございます。では、頂きます。」
たっぷりかかったごまだれをレタスになすりつけながら、豚しゃぶを頂きます。
「おお、この豚しゃぶは、ごまだれとよくあって、おいしいですねえ。」
「でしょ?この豚肉はね・・・(後略)。」
Yさんの豚肉談義が続くなか、着実に箸を進めます。
豚しゃぶは、確かにおいしい。
でも、多いんです。
なかなか減りません。
95歳のお母さんは、お肉をほとんど食べません。
で、Yさんはダイエット中で、ふた切れのみ。
「先生が来られるから、ちゃんと用意しておいたんですよ。」
そう言われたら、箸を進めざるを得ません。
けれども、少しずつ着実にペースが落ちてきます。
かと言って、あまり他のおかずに手を伸ばすわけにはいきません。
北朝鮮と中国の国境のように、厳しい看守の目が私の箸の行方を見守っているのです。
それでも、希望は捨てるものではありません。
そろそろお皿の底が見えてきました。
あとふた切れほどの豚肉とレタスが3枚残るのみ。
ふぅーっ、我ながら、よく食べた。
そう、安堵のため息をついたその時。
「先生、冷蔵庫を開けてもらえます。」
そのひと言で、一気に私の緊張が高まります。
「えっ、何か出すんですか?」
「その上から2段目に白いタッパーがあるでしょ?」
「あっ、はい、これですね。」
やや大きめのタッパーをYさんに手渡します。
「しっかり食べてもらわないとね。」
そうつぶやいて、パンドラの匣を開けるYさん。
もうお分かりですね。
そこには、キンキンに冷えた豚しゃぶが、私に微笑みかけていたのです。
しばらくフリーズしてしまいました。
「Ctrl+Alt+Delete」ぐらいでは、立ち直れません。
電源長押しで、強制終了するしかもう手立てはないのです。
なんと効果的な心理作戦なのでしょう。
「はい、おかわりもしっかり食べてくださいね。」
さらに、容赦ない追撃の手が加えられます。
豚しゃぶに心を奪われ、無防備な私。
まるで、百人一首の有段者のような素早い手つき。
息つく暇も与えず、お茶碗が視界から消え去ります。
「ご飯ももうちょっとですからね。」
いや、無理に食べ切らなくても、残ったらおかゆにでもしてほしいんですが。
案の定、しゃもじでペンペンと押しつけて、てんこ盛りで帰ってきました。
「ささ、食べてくださいね。」
急に、箸が何倍にも重く感じられます。
手首に大リーガー養成ギプスでもはめたかのように、緩慢な動作で、豚しゃぶに手を伸ばします。
ここで、忘れてはなりません。
ライオンは、兎を狩るのにも全力を注ぐのです。
「先生、実は、今日、とっておきの一品があるんですよ。」
Yさんの目が、星飛馬のように燃え上がります。
とっておき・・・。
できたら、そのまま、とっておいてもらえないでしょうか。
「こ、これは、一体・・・?」
果たして、Yさんが投じた魔球の正体とは?
-つづく。
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