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選ばれた人だけが踏み入れられるその世界の住人に。
「先生、お待たせしました。」
「あっ、もうよろしいんですか?」
どうやら、ドライヤーで髪を乾かし終えられた模様。
しかし、ここは、一刻も早く疑問を払拭しなければ、治療に専念することはできません。
「あのー、Yさん。」
「はい?」
「いきなりこんなこと、訊くのもなんですけど。」
「何ですか?」
「クーラーケースの上に、いつも近鉄百貨店のカゴを積んでおられましたよね?」
「ああ、あれ?」
「ええ、あれです。」
そう、あのカゴは、なぜ、忽然と姿を消したのですか?
次の瞬間。
Yさんの口から、驚愕の事実が語られたのです。
「あれはね、盗られちゃったんです。」
「えっ、盗られたんですか!?」
こ、これは、一体、どういうことだ。
盗られた・・・つまり、盗難に遭ったということなのか?
この場合、この表現は必ずしも適切ではないかもしれません。
元々、Yさんが近鉄から「無断で借りてきた」ものですから(笑)
しかし、あんなものを盗ってどうするのだろう?
しかも、Yたばこ店から。
欲しいのなら、どこかのスーパーから「無断で借りて」くればいいではないか。
つまり、Yたばこ店にカゴがあることを知っている人物の仕業?
それでは、顔見知りの犯行だというのだろうか?
なるほど。
初めて来店した人物が、衝動的に犯行に及んだとは考えにくい。
しかも、黙って接客することなどあり得ないYさんの目前で。
では、一体、誰が?
う~む、これでは、一層、謎が深まるばかりではないか。
「で、誰に盗られたんですか?」
ドキドキと高鳴る私の鼓動。
ついに、Yさんの口から犯人の名前が明らかにされたのです。
「それがね、コカコーラのお兄ちゃんなんです。」
「えっ、あのジュースを補充しに来るお兄ちゃんですか!?」
そう、彼が犯人だというのだ。
しかも、Yさんの見ている前で、白昼堂々と犯行に及んだらしい。
「ジュースって、よく新商品が出るでしょ?」
「ええ、そうですよね。」
「すると、自販機の中身を新商品に入れ替えたりするんです。」
「なるほど。」
「そしたら、元々、自販機におさまってたジュースを取り出さなきゃいけないでしょ?」
「はあ、そうなりますよね。」
「その入れ替え作業の時にね、あのカゴがちょうどいいみたいなのよ。」
そ、そんなことだったのか・・・。
いや、これは、想像もできませんでした。
きっと読者のみなさんもこう思われたでしょう。
「そんなの、分かるわけないだろ!」
「で、よほど気に入ったみたいでね。」
「はあ」
「そのまま、車に積んで持って帰っちゃったんです。」
「・・・。」
なんということだ。
それが、真実だったというのか。
まるで、サタンに魂を吸い取られたかのように、空疎な虚無感が私を包み込みます。
例え、土俵際に強い朝青龍でも、この「うっちゃり」から、逃れることはできないだろう。
かくも恐ろしきかな、禁断の黒魔術。
しかし、これはこれで、良かったのかもしれません。
Yさんに拉致された近鉄百貨店の買い物カゴ。
故郷を離れ、混沌の世界で過ごす寂寥の日々。
いつ帰られるかも分からない暗澹たる未来。
まるで、大宰府で使役に就く防人(さきもり)のように。
しかし、ここでまた、時機を得て、立派に、コカコーラのお兄ちゃんの役に立っているのではないか。
それは、カゴの生き方として、本望ではないだろうか。
そう、神様は、決して見放してはおられなかったのだ。
そんな空想の世界にひたっていたのも束の間。
Yさんの次の言葉が、私を現実へと連れ戻したのです。
「まあ、あげてもいいんですけどね。」
「はあ」
「どうせなら、そっちのカゴを持って帰って欲しかったんです。」
「えっ!?」
と、Yさんが指差すのは、前述のスーパーRの買い物カゴ。
Yさん宅から最も近いそのスーパー。
買い物カゴの色も、近鉄と同じグレー。
所詮、買い物カゴですから、見た目は同じ。
ただ、店のロゴが違うだけ。
もちろん、機能的には、全く同じはず。
「何か違うんですか、近鉄のカゴと?」
次の瞬間、私はあらためて、Yさんに畏怖を覚えざるを得なかったのです。
私という存在を遥かに凌駕するその大きさに。
「そんなん、先生。スーパーより百貨店のほうが、何でも値打ちがあるじゃないですか。」
「・・・。」
買い物カゴ。
ただの買い物カゴですよ。
しかし、そこにも、厳然たる階層社会が存在するとおっしゃるのです。
まるで、カースト制度のように、買い物カゴの社会にも格差が生じていると。
もしかして、これは、ブランド意識なのか?
まるで、ヴィトンやエルメスのバッグのように。
そう、ブランドとは、認知されることにより、確立される概念。
つまり、百貨店の買い物カゴは、スーパーの買い物カゴより、価値が高いのだ。
例えば、大阪には、半ば名物となっている電飾系の黄色いスーパーTがあります。
他府県から来られた方は、決まって、こう言われます。
「あら、このお店、スーパーだったの?パチンコ屋だと思ったわ。」
いかにも、大阪らしいと言えば、大阪らしい。
しかし、Yさんの評価は、すこぶる低いのです。
「だって、品がないでしょ。」
・・・品。
果たして、スーパーに品が必要なのかどうかは、定かではありません。
しかし、Yさんににらまれるということ。
それは、その口コミの伝播力を考慮すると、侮りがたいものがあるはず。
スーパーTの今後の企業努力に期待して止みません。
ところで、この「無断で借りてきた」買い物カゴを持っておられる方。
きっとYさん以外にも、たくさんいらっしゃるはず。
そう言えば、過去の伝説でLessIsMoreさんもコメントで告白されていました。
お母様が、その一人でいらっしゃると。
その方たちの間でも、「無断で借りてきた」買い物カゴに、厳然たる格付けがなされているのだろうか?
「あら、あの人。高島屋の買い物カゴだわ。」
「スーパーのカゴと違って、やっぱり品があるわよね。」
「私も、そろそろ借りに行こうかしら。」
なんて、会話がなされているのかもしれません。
ただ、この世界の住人には、誰でもなれるわけではありません。
残念ながら、小心者の私に、その資格はないのです。
頭の中で、再現してみました。
買い物カゴを無断で借りて、店舗から足を踏み出す瞬間。
いつ、店員さんから声をかけられるのではないだろうかと。
きっとドキドキしてしまうに違いないからです(笑)
しかし、Yさんに、そんな臆病さは、一切、見出すことはできません。
そもそも、何も言えないオーラがにじみ出ています。
万が一、その神聖な行為を咎める店員さんがいたとしても。
逆に、説教されるのがオチでしょう(笑)
そう、長年の歳月を経て、酸いも甘いも味わい尽くされた経験豊富な女性。
そうして、人生を達観され、ある一定の境地にたどり着かなければできない神聖な行為。
それこそが、買い物カゴの無断拝借。
まさに、一種の「悟り」ではないでしょうか。
特に、大阪という土地柄。
きっと日本一でしょうね。
ひったくりの発生件数と同じく、買い物カゴを無断で借りてきた件数も。
「なるほど、確かにスーパーRのかごは、たくさんありますね。」
「ええ、だって、スーパーは、しょっちゅう行くでしょ。」
なるほど、百貨店とは、訪問頻度が違いますものね。
それが、余計に、百貨店の買い物カゴの希少価値を高めているのかもしれません。
見上げると、スーパーRの買い物カゴは、5個くらい重ねられているでしょうか。
でも、待てよ。
Yさんは、買い物に行かれると、原則、無断で借りて来られる人だ。
しょっちゅう行かれるはずの近所のスーパーR。
それにしては、5個という数は、少な過ぎはしないだろうか?
「あのー、Yさん。」
「はい?」
「そのスーパーRのカゴなんですけど。」
「はい。」
「すぐに溜まりませんか?」
「ええ、溜まりますよ。」
「どうされているんですか?」
「実はね、これ・・・。」
Yさんの口から紡ぎ出されたその言葉。
明晩。
あなたは、またしても、禁断の扉に手をかけることになるだろう。
果たして、その扉の向こうに広がる世界とは・・・。
-つづく-
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